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10 photos
 南トルコ・タシュジュより11時に高速艇で出航。早めの昼食をとったり、チャイを飲
んだり…と浮かれていた。が、波に逆らう様に進むせいだろうか?一度甲板に見学に出た
頃から船が揺れだした。「ま、まずい。これでは酔ってしまう」ちょっとだけのつもりだっ
たのに、戻るに戻れなくなった。
 時間がたつにつれ、ズンズン揺れはどんどん激しくなる。同じ船に乗っていたトルコ陸
軍兵士もほぼ全滅状態。そこかしこで死んだマグロのように横たわっている。「初期オス
マン時代の兵士みたいに、海戦には弱いのかな〜」なんて悠長なこと考えている場合じゃ
ない!自分だっていつあのマグロの仲間入りをするか…といった危険な状態なのだ。もう
逃避するしかない。船の最後尾で
水平線だけを見つめ、ひたすら歌を唄って過ごした。
 …そして3時間後、キレニア(ギルネ)港に入港。立ちっぱなしで痺れた足を引きずり
引きずり戻った船内でも、乗客達はマグロ状態で固まっておりました。あんなに血の気が
失せて、ひきつった顔は見たことなかったよ、びいだまさん。(初の海外旅行でこんな目
に…御愁傷様です)←連れてったオマエが悪い!?
 冬の荒れる地中海をフェリーで旅しても平気だったのに。。。北キプロスに渡られる方、
荒れる日のクルージング(?)にはくれぐれも御用心下さい。(^ ^;)

北キプロスの旗

キレニア(ギルネ)

ベラパイス僧院 オレンジの花の香りが清清しい気持ちにさせてくれる。カランコエに似
た黄色い花発見。ガイドさんによるとキプロス特有の花だそうだが…。

ギルネ城 現存する最古の船あり。

聖ヒラリオン城 アラブの侵攻によって小アジアのビザンティン領からキプロスへ避難し
てきた聖人ヒラリオンの名からつけられた。もうひとつの有力な説は3〜4世紀にかけて、
オリエント世界におけるキリスト教修道院の創設者のひとり、大聖人ヒラリオンにちなん
だ…というもの。

教会

レフコシャ(ニコシア)

 紀元前280年にエジプトのプトレマイオス1世の息子Leucusにより現在とほぼ同じ場
所に再建された。初期ビザンティン時代にはLefkonという「ポプラ並木」を意味する名で
呼ばれていた。
 レフコシャがキプロスの首都になったのは、アラブの初侵攻があった7世紀以来である。 Lusignannsの治世(1192〜1489)には中世キプロスの最盛期を迎えた。
 その後ヴェネチア人の支配を受け、1570年にはレフコシャが、翌年にはマウサ(ファ
マグスタ)がオスマントルコの支配下に入った。彼等は多くのモスクや隊商宿、公衆浴場
等を建設したが、1741年の地震によって市場とセリミエモスクのミナレット一本が崩
壊した。
 ニコシアの旧市街は職人達が住み、品物を作るだけでなく市内の市場で売っていた。こ
の町は円形の城壁に囲まれている。これは1567年にヴェネチア人が、中世時代の城の
石を使って築いたもの。オスマントルコからの防衛を目的としていた。

ギルネ門 ヴェネチア人が、中世の城壁の石を使って作ったものだが、1821年にトルコ
が修復し、上部にドーム付きの方形の建物を加えた。中世から近代にかけての文字が刻ま
れた、石版がいくつか見つかっている。

ヴェネチア時代の柱 灰色の花崗岩(御影石)で作られたこの柱は、サラミスの遺跡から
運ばれてきたもの。1915年に現在のアタテュルク広場に立てられた。頂きには、失っ
たヴェネチアライオンの代わりに銅球が載せられている。

大浴場 ゴシック式の入り口。半分だけのぞいているアーチ。1571年にトルコ軍がこ
のレフコシャにやって来た時期の中世の建築物である。この町では、古い建物の上に新し
い建物が建っていくため、古いものはそれだけ低く位置することになる。かがんでも頭を
ぶつけてしまいそうな低〜い入り口です。

ブユックハーン(大隊商宿) 16世紀の宿。非常に高いところに小さな窓がついている
だけの、堅固な要塞風。ここに泊まる商人たちの富は、常に略奪の危険性があったことと、
ここが作られた中世当時、ガラスが大変貴重だったかことから、この様な外見になった。
67名宿泊可能。

セリミエジャミイ(元・聖ソフィア大聖堂) 13世紀初頭に建設されるも、15世紀末
期から18世紀半ばにかけて起こった4回の大きな地震により激しくダメージを受ける。
1571年にモスクへと作り替えられた。中の壁は白く、明るい雰囲気。


 市の中心部を走るグリーンライン。北側のトルコ占領区域と南側を分けている。そのせ
いか、とにかく軍人が多い!目につくのは国連派遣の兵士ではなくトルコ兵ばかり。徴兵
されてきた若い田舎の兄ちゃんたちなのだろう。「珍しいものを見た」と、側を通ると大
はしゃぎだった。オイオイ。(^ ^;) でもピリピリした感じではなかったです。
 物価は本土よりちょっと高めカナ。幾つかまとめて買い物をしても、値引いてもらえな
かったのはなぜだ?

門

ギュゼルユルト(「オレンジの生産キプロス1」の町)
博物館 自然部門と考古学部門に分かれている。


ソリ遺跡
 プルタルコスやヘロドトスによれば、紀元前7世紀にギリシアのアテネ人によって建設
され、政治家ソロンの名にちなんで「ソリ」と名付けられたという。紀元前5世紀にペル
シア帝国の支配を経た後、最盛期を迎える。ヘレニズム、ローマ、ビザンティン時代…と
都市は拡張していったが、 7世紀半ばに始まったアラブによる攻撃で破壊された。
モザイク バシリカ(聖堂)にたくさん有り!
劇場 小高い山の斜面に作られた。紀元後2〜3世紀のもの。
アゴラ(市場)


ヴニ宮殿跡
 ギリシア語で「山の頂」の意味だそうだ。頂上から海にかけて3段階にわたる敷地に建
物の跡が残っている。 一番上:アテナ神殿あり 二番目:これがメイン。宮殿の広さは
100×130mくらいか。。。2階建てで137もの部屋があった。
 現在の跡を見ただけでは想像も出来なかったが、資料を見て驚いた。素晴らしい建築構
造。まるでクレタ島のクノッソス宮殿のよう!(あ、ヴニの方が時間的には後になります)

お花

マウサ(ファマグスタ)

城壁
ヴェネチア宮殿
ララ・ムスタファ・パシャ・ジャミィ(元・聖ニコラオスのゴシック式カテドラル)
オセロ城
デニズカプス(海門)
ジャンブラトゥの墓所&博物館


聖バルナバス教会 イコン多し。バルナバスはサラミスのユダヤ人家庭に生まれた。エル
サレムで教育を受け、紀元後45年にキプロスに戻り、聖パウロとともにキリスト教の布
教に務めるが、仲間のユダヤ人によって殺される。彼の死体は沼地に隠された後、夜になっ
てから海に投げ込まれた。しかし一連の出来事を目撃していた彼の仲間が遺体を引き上げ、
サラミスの西にある洞穴に隠した。ユダヤ人たちはそれに気づき、仲間をニコシア近郊の
パラスケヴィまで追いかけた。仲間たちはエジプトへ逃亡。そのためバルナバスが埋葬さ
れた場所は長い間謎であった。400年以上たって、司教アンテミオスの見た夢で埋葬地
が明らかになった。司教は洞穴を掘り返し、遺物をイスタンブルに持ってゆき、皇帝ゼノ
に捧げた。皇帝はバルナバスが埋葬されていた場所に修道院を建てるよう資金を出した。
1976年この修道院と教会の保存に力を尽くした3人の司祭によって、南へ移された。

考古学博物館有り。ここで北キプロスの資料を手に入れる。


ネクロポリス 紀元前7、8世紀の王たちの墓。紀元前8〜4世紀にかけての共同墓地。
馬の骨多し。まるで小型サイズの中国皇帝陵のよう。

サラミス遺跡 島の東端、城壁と海に守られた場所である。ギムナジウム(運動場)、劇
場、ローマ風呂、貯水槽、聖堂、市場、ゼウス神殿などが見られる。



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 改装日:2004/07/04
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