> 林檎通信 >> 2004.09クルディスタン旅行記 | |
9/17 テヘラン | |
イラン自体は8年振り。西イランに至っては、実に10年振りの訪問だ。最初に訪れたのが、このイラン領クルディスタン地方だったので、当時の印象も一際強く心に刻み付けられている。 首都テヘランでは夕方から芸術文化センターにてクルド文化研究所所長ヴァラドバイギさん、歴史家のボルゾウイさんらのお話を伺った。今迄耳にしてきた「イラン人を通したクルドの話」ではなく、クルド人の立場から直接語られる「言葉」を聞くことが出来て良かったと思う。 その後アリディ監督の『The last uncounted village』を鑑賞。素朴な味わいの、ほのぼのした雰囲気のショートフィルムなのだが、反ってそこに潜む問題の根深さが感じられるストーリーだった。 19時過ぎにはクルド人グループの野外コンサートを聴きに行く。周囲の熱気に押されながらも、何せテヘランは高度1200m近い高原の町。さすがに寒さに耐え切れなくなった20時半過ぎにホテルへ帰還する。 | 昼食を食べたレストラン クルド文化研究所にて |
9/18 テヘラン〜ケルマンシャー〜アル・ハッジ | |
午前便のチケットが取れず、午後の便にて西イラン最大の町ケルマンシャーへ。夕闇の迫る中、市内のホテルでクルド人の中でも少数派の「アハレル・ハック派」と「ヤルサーン派」についての話を地元に住むイブラヒムさんから伺う。 教義や修行の内容等に関することだったが、申し訳ないことに不勉強なもんで理解出来ませんでした。綴りが分からないのでネット検索にも引っ掛からず。『イスラム事典』を見ても載ってないんだもんなぁ〜(ウチのは平凡社刊の初版なんす) 後は北西に向かってひた走る。山道のうえ、傾斜もきつくてスピードが出せず。宿泊予定地のアル・ハッジ村・シャイフ(長)のヌーリ氏宅に到着したのは23時過ぎでありました。この途中で見た星空が、また非常〜に美しくてねぇ。「ここの星空が、今迄見た中で最高!」と思うのだが、ここんとこ毎回のように「星空大賞」更新されております。 こんな遅くに着いた旅人の一行を、クルド料理で歓迎して頂く。ナーンにチキン・トマトスープ、もうひとつトマト味のスープ、葉っぱにチャイ。素朴だけど、材料の味が生きていて美味しい〜♪村中に(こんな時間でも)響き渡る、結婚式を祝う音楽をバックに「旨い旨い」と食べまくるのだった。 結局、就寝は25時過ぎ。同じ敷地内に建つ修業場にて雑魚寝なり。寝袋を貸してもらえたので、寒くもなくグッスリ眠れました。先にそこで寝ていた結婚式のお客さんたち一行。こんな夜更けに外国人がゾロゾロ入ってきたのにはビックリしたことでしょう。暫く笑いながら観察されてました、私達。 | 絨毯博物館にて 緑の宮殿 アル・ハッジ村の夕食 |
9/19 アル・ハッジ〜ホウラマン〜マリヴァン | |
手作りのバター&チーズをナーンに挟んで食べる朝食。周囲の景色が朝日に照らされて美しく、一層美味しく食べられました。食事の後は徒歩で村内を見学。外国人自体が珍しいので、反対に見学される我々。 ヌーリ氏宅に一旦戻ってから、今度はバスに乗り込みマリヴァンの町を目指す。しかしそうそう上手くことが運ばないのが、この地方。一体幾つ山を越えたのだろう?数えるのにも飽きてしまった15時過ぎ、見学予定のホウラマン村の入口に到着。 聖ピール・ムスタファ廟等を見学。この聖者の生まれた家の柱頭が面白いのだ。 17時半の昼食を終えると、イラクとの国境近くまで山道を登る。最初進む予定だった道は「地雷が沢山埋まっていて危険」とのことで、別ルートからイラク領のクルディスタンを眺める。夕暮れ時だからか、ハラブジャの町が見えるからか、とても切なくなる風景だった。 マリヴァンの町はまだまだ先。20時半過ぎ、運転手のミナさん宅で夕食をご馳走になる。家庭料理はやっぱり美味しい!ヨーグルト風味のライススープ、トマトスープや揚げドーナッツ等々。お客が残さざるを得ない量の料理を出して歓待するのがクルド流なので、見ているだけでお腹一杯になりそうな量だ。 2時間近く滞在して、お暇する。ホテルに到着したのは、その約1時間後。バスに座っているだけ…っていうのも疲れるんだよ〜 | アル・ハッジ村の朝食 結婚式のダンス 家庭料理 |
9/20 マリヴァン〜バシュマク〜サナンダージ | |
起きてカーテンを開けてみてびっくり。裏にはザイヴァル湖が広がっていた。この美しい景色を見ながらの朝食も乙なモノ。出された紅茶が英国のアーマッドティーだったので「何でこんな場所で?」と不思議に思っていたら、イラク領クルディスタンからの密輸品だということが後に判明。 その運び手の人々が沢山いるという国境地帯バシュマクへ。運び人の一人アハマドさんに話を聴いた。地雷原を抜けていく、文字通り「命懸け」の仕事。それでも賃金は片道3ドル程度とのこと。しかし卑屈さは微塵も感じられず、誇りを持って生きているのが伝わってくる。こういう人に出会うと「人間って逞しいね…」って心から思ってしまう。 一旦マリヴァンに戻り、市内のバザールを見学してから東のサナンダージへ向かう。途中、イマーム・アリ直筆と言われているコーランがあったスンニ派ネゲル・モスクを見学。数カ月前に2度目の盗難に遇って、コーランは行方不明。そのため町の人々は喪に服しているという。 日が高いうちにサナンダージのホテル到着。珍しく早めのチェックインを済ませてから、カジャール朝時代に建てられたコスラバード宮殿と金曜モスク見学のため再出発する。 余り見たことがない建築様式で面白かったのだが、18時を過ぎていたので薄暗く、上手く写真に撮れなかったのが残念!特別に女性用の祈りの部屋まで入れてもらえたのになぁ…。 夕食のためにホテルへ戻ると、クルドのお祝い料理が登場。旅のコーディネーター・ゴラレさんのお母さま手作りの、カラナとシュケルナというクレープみたいな食べ物です。粉砂糖をパラパラ振りかけて、クルクル巻いて食べるのだ。 食事の後でサアドパナハ監督の出来たての映画「縦笛の声」を鑑賞。現代の寓話のような幻想的な作品でした。 これだけで1日のスケジュールが終わらないのが、この旅の特徴。今度はタクシーに分乗してカーディレイヤ教団の修行所へ。 しかし女性は中に入れない日だったので、近所にあるアリディ監督の実家にお邪魔。目のあたりが監督そっくりのお母さまと、同じく瓜二つの、すぐ下の弟さんが迎えて下さる。夜も遅いのにスイマセン…。でも先に観たフィルムの授賞式ビデオを見せて頂けて楽しかった! | ザイヴァル湖 運び屋さんと国境 イマーム・アリ直筆コーランの写真 カラナとシュケルナ ノンアルコールビール有り |
9/21 サナンダージ〜ウルミエ | |
この日からイランは冬時間に切り替わる。1日が1時間長くなったって感じかな。それに合わせた訳ではないだろうが、今回の旅の中で一番冷え冷えした朝だった。 5時半に出発。バスは北上を続ける。ホテルを出てから4時間余り、カラフト洞窟へ到着。 ここは自然の洞窟に人々が手を加え利用していた4階立ての遺跡である。古代ペルシャの主要神ミトラの神殿が有ったとも言われている。 内部は思った以上に深い。例えるなら、整備前のカッパドキアの地下都市みたい。ライトは設置されているが、足下まで照らされている訳ではないので懐中電灯が必需品だ。 鍾乳洞みたいに水が溜まった場所を通るので滑らないようにご注意!ま、滅多にこんなトコ行くツアーは有りませんが…。 でも地元の人は来るらしく、入口にはトイレも完備されてます。 昼食後はタカブーの先「ソロモン王の牢獄」(ゼンダン・イ・スライマーン)を眺めてから、「ソロモン王の玉座」(タフト・イ・スライマーン)へ。わぁ〜立派になってるぅ! 10年前に来た時には、近くまで道が通っていなくて、手前のぬかるんだ土地を横断して行ったのです。それがまぁ、駐車場まで出来てるよ。感無量…! 内部はかなり補修が進んでいた。でも周囲に広がる雄大な景色は、当時の記憶にあるままだ。 「ソロモン王の玉座」は、上から見るとよく分かるが、パルティア時代の都市建設プランに則って作られた円形都市。中心から四方に大通りを配置して、それぞれの先に4つの城門を設けるのが典型的な姿だという。 しかし広過ぎて、且つ後の時代の建物が修復されて建っているので、地上からはハッキリとは確認出来ず。 17時近くまで見学をして、また長距離ドライブ。西進した後、かつてクルディスターン人民共和国の首都があったマハーバード近くを通り北上。宿泊予定のウルミエまで行くのだ。 結局ホテルに到着したのは22時半過ぎ。それから夕食をとって部屋へ引き上げる。 明日は6時半に出発というのに、テレビでやってた『ロード・オブ・ザ・リング』の番組を見始めてしまう私。CE版とSEE版のDVD持ってるんだし、言葉だって分からないのに何故か止められない…。やはりペルシャ語を喋るP・Jがツボだったのかも!? | カラフト洞窟 タフト・イ・スライマーン 水浴び親子 タフト・イ・スライマーンにて タフト・イ・スライマーンにて |
9/22 ハッサンルー〜ウルミエ〜ギュゼルス〜タットヴァン | |
ハッサンルーへはオプショナルなので、往復タクシーをチャーターして見に行く。「朝食は車内で」とのことだったが、時間あるのか?(結局、往復で3時間半かかってしまい食べられなかったんだよね) ここも10年前に訪れたはずなのに、実際に遺跡の丘を目にしても「はて?」といった程度。柱…と言うか、厚〜い土壁に囲まれた建物跡を歩いて回る。 ハッサンルーは紀元前6千年期にまで遡れる古〜い遺跡。管理人の方からは、パンフまで頂いちゃいました。発掘物が写真入りで載っているので嬉しい〜!(帰国してから昔の写真をひっくり返してみたら、デコボコが分かる程度の未整備の遺跡でした。だから全然記憶に残ってなかったんだね) ホテルへ帰還後、荷物をいつものバスに積み込んでからウルミエ市内観光へイザ出発。マルヤム教会(ネストリウス派)、アッシリア系プロテスタント教会、アルメニア系カトリック教会(カルケドン派)等々。同じ市内の歩いて行けるような距離に、幾つもの宗派の教会が建っている訳だ。 「締め」にセルジューク朝期のシェ・ゴンバッド廟を見学してから、そのまま西へ向かいトルコとの国境を目指す。ガイドのエティマディさんらとも遂にお別れ。毎度のことながら、しんみりしてしまいます。楽しい旅を、どうもありがとうございました!またお会いしましょう、インシャッラー! 丁度お昼時間に重なってしまったのと、管理用のパソコンが壊れたとかで、待合室でゆっくり待機。ここより東の、バーザールガーン〜ギュルブラック間ルートに比べると利用する人も車も少ないせいか、せかせかした雰囲気は感じられない。 しばらくすると係員がパスポート片手に現われた。一人ずつ名前を呼んで、やって来た人物と荷物をざっと見ると、パスポートを返してくれて出国完了。とっても呆気無い。(最初のうちは、日本人のパスポートが珍しいのでニコニコ眺めていたんですがね…すぐに飽きた様です) 建物を出て1m程度の鉄板の橋を渡ったらポーターさんが待っている。あれ?「トルコ側に入るまでポーターはいない」って聞いていたのに。もしや…。そう、この鉄板が国境を繋ぐ橋だったのです。こんなんじゃ、行ったり来たりし放題じゃん! 先に行った女性たちは、一斉にスカーフと上着を脱ぎ捨てている。暑いもんね〜 全員が出国するまで辺りの景色を堪能。係員の人に聞いたら写真撮影もOKとのこと。お互いが「こっちの方が良い国だよ」と宣伝しあってる国境の風景は、住んでいる人から見れば苦笑いものなんだろうな。 そこから更に50m程先にある建物がトルコ側の税関。手前には立派な大型バスが停車している。「Ak Su」という会社のバス。おお、今度は乗り心地良さそうです。こちらの税関も、手際はどうあれ簡単に入国スタンプを押してくれる。やはり最初のうちは、珍しい日本のパスポートをいじくりまくっておりましたが…。 14時過ぎに国境をあとにする。ここから先は「高原の風景」と言った感じで非常に美しい。イラン側は埃っぽい殺風景な景色だったのに、国境を越えただけでこれだけ変わるとは思ってもいなかった。個人で来る場合でも、滅多にこのルートは通らないだろうから、目にしっかり焼きつけておきました。 途中、大きな三叉路で右に折れて北上。そろそろ日が傾いてきた16時頃にバシュカレ手前のURFA SOFRASIで昼食。トルコが凄いと思うのは、こうした人里離れた辺鄙な土地にポコッと建つ食堂の料理が、ひっじょーに美味しいところ。 イランの料理も、素材そのものの旨味が生きていて素朴で美味しいと感じていたが、ここでの料理を食べてしまったら「トルコ料理万歳!」にコロッと変節。これまで食べる機会がなかったザクロシロップを使った料理とか、作り立て?なのか、ほんのり温かいアイランとか。ホント旨かったよなぁ〜 さて昼食後、夕闇迫る中をバスはひたすら北進。今回の旅のルートで一番高い2700mの峠を越える頃には、明日の晴天を保障するような真っ赤な夕焼け空が広がっていました。でもまだ観光は残っているのだよ。 18時にギュゼルスにあるホシャップ城に到着。17時閉館なので外から眺めるだけです。暗くて、写真も殆ど写らなくて残念でした。 本日の宿泊地タットヴァンのホテルに着いたのは21時半過ぎ。以前購入したワン地方のガイドブックにも載っているカルデレン・ホテル。料理もサービスも立派でした。 | ハッサンルー遺跡 マルヤム教会祭壇 アルメニア系カトリック教会 聖母像 イラン・トルコ国境 車窓から カラス川 URFA SOFRASIの昼食 デザート キュネフェ |
9/23 タットヴァン〜ビトリス〜ハサンケイフ〜ミディヤット〜マルディン | |
7時半に出発。遠くワン湖を眺めてから西進。16世紀の隊商宿エルアマンで写真ストップをした後、セルジューク時代のウル・ジャミィが残るビトリスへ。 町を簡単に巡ってから一気に山道を下って行く。今年は東トルコも雨が多かったそうで、濁流で川沿いの道路が所々陥没してしまっていた。 高度も下がり、かなり暖かくなってきた頃、聖者廟を見るべく途中下車。聖ベイセル・カラニという6世紀イエメン生まれの人の廟だ。彼は預言者ムハンマドの教友とも言われている。 廟内部は左手が男性用、右手が女性用。人々の願いを神に執りなす聖者の廟に相応しく、願掛け、それも身体が不自由な人が多く詣でていた。更に、近くの丘の上には聖シーオスマン廟も見られる。 綿花畑が広がるバトマンで今度は南下。ハサンケイフを目指す。冬は一面濃い霧で覆われ、周囲の景色が全然見えなかったのに、何だ!このきれいな風景は!! お昼ご飯はチグリス川の岸にて、高床式の台に腰掛けて頂きます。川辺を渡る風が清清しい〜♪そのうち「んがんが」と音がしてきたので「何事か」と下を見ると、あひる!?餌をねだっているんですね。 最初のうちはパンを小さくちぎってあげていたが、食欲旺盛なあひるが6羽も集団で催促に来るので、自分が食べてる時間が無い。(だって、座ってる台のすきまから「餌くれ!」とくちばしで突っつくんだよ〜)大きめにちぎって遠くへ投げても、すぐ寄ってくる。あひるに踏まれた靴がバラバラに散らばっておりましたよ…。 この時にお話を伺ったハサンケイフの市長クセンさん。ダム建設によって沈んでしまう周辺の遺跡(文化遺産)を守るために、粘り強く交渉していくとおっしゃっていました。 また彼が「ハサンケイフで何より美しい」と勧められた城塞からの眺め。予定には無かったのですが、この一言が決め手になり観光することに。やったー!ううっ〜綺麗だよ〜!!周囲の景色って、こんな風だったのね。ホント、季節や天候によって風景は全く変わるんだなぁ。その土地にどんな印象を持つか、かなり運に左右されますね。 城塞見学後、更にバスは南下を続ける。この山道も「見えると」美しい〜♪1時間足らずでミディヤット郊外に建つ聖ガブリエル修道院に到着。ここは4世紀から12世紀までシリア正教会の総主教座でもあった由緒あるところ。 以前訪れた時に不謹慎にも心の中で笑ってしまった「びっくり猫目」刺繍は、信者のおばさんが手作りしたものなのだそうです。また、ビザンティン時代の皇妃テオドラが寄進した建物等、日本語に訳してもらった説明が聞けて良かった良かった。 帰る直前に修道院長でもあるアクタシュ大主教さま登場。お話を伺うことが出来ました。真っ赤な服が印象的〜 さて、外はすっかり日が沈んでしまったが、本日最後の「遺跡見学」が残っています。マルディンの町を一旦通り過ぎ南東方向へ。ガイドさんも知らないダラ遺跡へと向かう。 バスも案内板を見落とさないようにゆっくり走行。大型車はすれ違えないほど細い道を進み、軍事施設を越えた先に集落が見えてきました。え?こんな村の中にある遺跡なの??? 「ダラ」と言うのは、アケメネス朝ペルシアのダレイオス王の名から名付けられたという。他にはビザンティン皇帝の名からアナスタシアポリスとも呼ばれているそうだ。 周囲には家々の灯りしか無く、道案内を買って出てくれた村の少年の案内が頼り。LEDライトとカメラの外付けフラッシュに頼って写真を撮っていた。そうこうしているうちに、ここの子どもたちが集団に加わり、人数は3倍くらいに膨らんでいた。 観光案内のパンフレットに載っていた貯水施設の大きさに驚いていたのに、民家の間にあった穴に入ると 「うおおおっー!」 という叫びに変わった。すごいすごいすごい!遺跡の素晴らしさに日本人興奮。 月に1回程度しか観光客(それも一人とか二人程度なんだって)が訪れない村に、10名を超す外国人観光客が現われて、地元の子どもたちも大興奮。日ト集団の熱気渦巻く地下ホールでございました。(笑) 興奮覚めやらぬまま宿泊予定のマルディンへ戻る。周囲は真っ暗なシリア平原に、ぽっかりと浮かぶマルディン旧市街。町の灯りが煌めく様は、うっとりするよな美しさ。バスを停めてもらって夜景写真に挑戦したが、三脚もないので上手く写っていなくて残念。 毎度のことながら、遅めの夕食を済ませてから部屋へ。締めきっていると暑いので、5階の端の部屋なのをいいことに、窓を開けて星空を眺めながら就寝。2004年ラマザン前の駆け込み結婚披露宴の音楽が、夜中まで響いておりました。 | エルアマン・キャラバンサライ ビトリスのウル・ジャミィ内部 ハサンケイフ城塞より チグリス川 聖ガブリエル修道院入口 アクタシュ大主教さま ダラ遺跡 貯水施設 ダラ遺跡 貯水施設の設計図 |
9/24 マルディン〜ディヤルバクル〜エラズー〜マラテヤ | |
朝6時から始まるというザファラン修道院のミサを見学するため5時半にはバスへ。(希望者のみ) 明け方の、ひんやりとした空気。乳香の香り漂うホールに響き渡る歌声も素晴らしい。よく知られているプロテスタントやカトリックとは、また異なる雰囲気の儀式だ。 服装なんかも気になってしまうので、じっくり観察して後で覚書に描いておいた。中央にいらしたドぴんくマントの背中のマーク。最初は「双頭の鷲」かと思ったら、鳩だったり。 ここは、昨日訪れたミディヤット郊外の聖ガブリエル修道院のあとを受けて、12世紀から80年程前までシリア正教会の総主教座だったところ。建物自体は、4000年前の太陽神殿の上に築かれたものなのだそうだ。今回、その神殿の土台部分も見学することが出来た。 予定外の案内までして頂き、大満足でホテルへ戻る。本出発まで余り時間が無く、大慌てで朝食をかき込む。丁度フランス人観光客の出発と重なっていたので、レストランは大混乱だったな。 まずはマルディン市内観光。2世紀に建てられたというマル・ミハイル修道院へ。建物の中までは入れなかったが、南側に広がる大平原を眺めてご満悦。こうして秋口に来て見ると、ここが豊かな土地だと実感出来る。 その後は考古学博物館を見学。この町の周囲にある「知る人ぞ知る」遺跡からの発掘物が置いてあって、遺跡オタクはついつい再訪を誓ってしまうのでありました。また、ウル・ジャミィにてトルコに於けるミヒラブの話も聞きました。 名残りを惜しみつつ、一気に北上してディヤルバクルへ向かう。さすが9月でもここは暑い!昼食を済ませてから市内観光。95年に訪れた時と比較すると、あか抜けた町並みに変わったように感じる。 ウル・ジャミィの先、通常の観光では訪れないクルド詩人の家を訪問。玄武岩に雄雌があるなんて初めて知りましたよ、わたしゃ。 んと、オスはツルツルしていて水をはじくので、主に床部分に使用。メスは穴が多くて水をまくと中に入って長いこと涼しい。なので壁に使用するのだそうですぞ。 また、この家は四季に応じて部屋が配置されている。例えば、寒い冬は南からの太陽の光がよく当たるように、中庭を挟んで北側に部屋が造られているのだ。逆に夏の部屋は気化熱で涼しくなるよう石畳の床を用意し、場所も日射しが入り込まないように中庭の南側にある。 ディヤルバクルでの観光を終えると北西の方向にあるエラズーへ向かう。途中18時前にきれいな湖の横を通った。ガイドさん曰く「カスピ海の意のハザル湖」で、お金持ちの別荘が周囲に立ち並んでいるそうだ。 高台にあるエラズー旧市街に到着したのは、またもや夕闇の中。これから霊廟巡りをするんだから 「ロンドンも真っ青、トルコミステリーツアー」 と勝手に称していました。 最初の廟は「首を切られても、落とされた自分の頭部を持って闘った」という聖者アラップ・ババが眠る場所。遺骨も見せてもらったところ、確かに首の部分が切り落とされておりました。確かウズベクでも聞いたお話なんだよな、これ。 2件目のマンスール・ババ廟。ここも内部に入れました。アルトゥック朝の歴代領主の墓とのこと。 それから16世紀建立のハマムを改装したレストランを見学して、今日の観光は終了。ホントはもっと色々な建物が残っている場所なんだけど、今回はパスとのこと。前に見ておいて良かったよ〜 お泊りは更に西の町マラテヤなので、ホテル到着は21時過ぎ。でもイランの時よりかは、全体的に早くなったか…。ははは(乾いた笑い) | ザファラン修道院入口 マルディン 考古学博物館 ディヤルバクル ウル・ジャミィ ディヤルバクル 詩人の家 エラズー マンスール・ババ廟 |
9/25 マラテヤ〜ガジアンテプ | |
マラテヤ名物アンズをホテルのロビーで買い出ししてから出発。新市街のスークで、またまたアンズ等ドライフルーツをお土産用に買いあさる。だって好きなんだもーん! さすが産地。アンズの花の香りのコロンヤが売っておりました。 それから北に広がる旧市街の見学に。前回来た時には外側からしか眺められなかったウル・ジャミィの内部に入ることが出来ました! 想像以上の素晴らしい内装。セルジューク朝スルタン、アラー・アッディーン・カイクバード一世によって建てられた建物で、梁の部分にアラビア語が彫られていたり。中庭に面したタイル装飾に中央アジアを感じさせる星が描かれていたり。その素朴な美しさに感動していました。見学出来て良かった〜♪ お次はシリアとの国境に近いガジアンテプまで南下する。披露宴会場で、町のお偉方を交えて昼食。それから考古学博物館へ。ここのモザイクが好きなんだよなぁ。 2年前に来た時は、コインや印章などが展示されていた中央の部屋は、その直前に発掘されたマルス像が置かれていました。暗〜い照明しかない部屋の奥に置かれたそれは、入口に渡されたロープに阻まれ近寄れず。写真も暗過ぎて、うまく写っておりませなんだ。 一方喜ぶべきは、04年の冬にモザイクを展示するための新館が建つこと。かなり広い博物館に生まれ変わるということだが、建設予定地である現博物館裏は04年秋の時点で「ただの空き地」。 完成は2、3年遅れるとみた。 その頃以降に再訪するとしよう。←自己防衛 町の東に聳え建つ城塞を、ふもとから見学中にパン屋を発見。写真を撮らせてもらっていたら、お店の人が1枚くれるのです。ホントよく食べ物を恵んでもらうよな、ワシ。 車内でそれを分け分けして食べながら、今度は南寄りにあるという元アルメニア教会目指して歩く。入口を開けてもらって中へ。柱も梁も太く、ガッシリとした造りだ。 たまたま通りかかった建築を専攻しているという青年と、この元教会の味のある管理人のじーちゃんの話を聞く。じーちゃんはトルコ独立戦争当時の記憶もある、正に生き証人だったのだ。 昔、この辺りにもアルメニア人が住んでいたが、戦争の混乱の中で住民間でも争いが起こり、追い出されるような形で去って行ったのだという。 青年の方はその話を家族から聞いていて、歴史的な知識から判断すると「アルメニア人に対し余り良い感情は持っていない」と言っていた。しかしじーちゃんが「昔はそんな区別もなく一緒に遊んだ。民族の違いなどは関係ない。」と話すのを聞いて、態度が随分と変わった。考え直すきっかけとなったらしい。 やはり相手個人の素顔を知ることで、誤解・対立は解消されていくんだろうなぁ。そうゆう言葉を話せるじーちゃんてば、凄いよ! 本日宿泊のホテルは高級だけど、カードキーが使えなくて何度も部屋とフロントを往復。こうまでしてもダメなんだから「部屋を変えてくれ」と言っているのに返事は「ノープロブレム」ときたもんだ。 「ならマスターキーを寄越せ!」(マスターキーでしか開けられなかったのだ)と凄んだら、やっと他の部屋にしてくれた。空いてるんだったら、さっさとやればいいのにねぇ。…という訳でRAVANDA HOTEL感じ悪いのぢゃ! | エスキマラテヤ ウル・ジャミィ エスキマラテヤ ウル・ジャミィ中庭 ガジアンテプ考古学博物館 マルス像 ガジアンテプ 楽器屋さん 元アルメニア教会の石十字 |
9/26 ガジアンテプ〜アシュキバル〜アフリン〜アレッポ | |
陸路国境越えが待つ翌朝は、5時起きの6時半出発。地図で見ると、ガジアンテプって「国境のすぐ近く」だと感じていたけれど、1時間半くらい走り続け、幾つもの町を通り過ぎた。 このインジプナルからシリアへ抜けるルートは、大型バスも何台か停まっている。ほどほどに行き来が盛んらしい。 トルコ側の出国手続きは、これまたスムーズに済んだ。ここでシリアから迎えに来たバスに乗り換えてシリア側の入国手続きへ。 途中で助手が病に倒れ、一人でずーと運転を続けていた運転手ジンギスさん、本当にお疲れ様でした!そしてこんなヘンテコツアーの案内をする羽目になった日本語ガイドのユルドゥルムさん、ご苦労さまでした! シリア側の税関では殊の外時間がかかったが、涼しいバスの外に出てお喋りしながら待っていたので、そんな長くは感じずに済んだ。10時頃国境を後にする。どんどん南下するので、日射しが更に眩しくなっていく。 シリア側のガイドさんは何と2人も!アレッポ博物館の副館長ムスリムさんとダマスクスの案内をして下さる予定のアスワドさん。アスワドさんは有名なムスリム副館長さんとご一緒したくて、わざわざアレッポまで来たのだそうです。ガイドの血が騒ぐらしい。(笑) まず最初はアシュキバル村にあるヤズド教の聖なる洞窟神殿。信者である地元のおいちゃんたちがバイクに二人乗りして先導してくれるのだ。 七夕飾りのような願掛け布が巻き付けられた洞窟の入口。我々は異教徒なのに、中に入るだけでなく写真撮影も許可してくれた。もう少し先にある聖マラク・ハーディ廟は、つい最近イスラム教徒に破壊されたという。 ヤズド教はゾロアスター教の流れをくむ、クルドの元々の宗教で、地水風火の四大元素を大事にする一神教である。クルド人は7人の天使(日本語では、他にはいい訳がないのだそうだ)の末裔なのだという。孔雀は神の遣いであり、神聖なものとされている。 ※今回、信者の方から聞いた話をまとめました。外部には明かされていなかった部分も有り、事典などの記述とは一部矛盾する部分もみられます これまで何故クルド人が差別されるのか、感覚的に分からなかったのだが、この宗教についての説明を受けて胸にストンとくるものがあった。同じ一神教で、後に「イスラムに改宗した」と言っても、根っこの部分に異教の教えを持つ者が同じムスリムを名乗るのが許せないのかもしれないな、と。頭でなく心が。だから感情で動いてしまうように思えた。 村の民家を訪問してから、この地方の中心地アフリンの町を過ぎ、海抜30メートルの丘の上に建つアイン・ダラ遺跡へ。日本の調査隊も入っているという。 敷地の北東部を占めるイシュタル(イナンナ)女神を祀る神殿は、玄武岩が使われているので黒くて渋い。一方、神殿の周囲に立ち並ぶスフィンクスと獅子のレリーフは、丸っこくって愛嬌のある顔だち。一目見て気に入ってしまいましたよ! アフリン河畔での昼食後、この周辺で有名なもう一つの観光地・聖シメオン教会へ向かう。「聖シメオンが修行生活をしていた」という柱は18メートルの高さだったそうだ。彼の死後5世紀末に聖堂が建てられた。更にその後、10世紀には城塞として使われることになる修道院も南側に建設されている。 イラン・トルコ・シリア3カ国のうちでは、シリアが一番クルド人としての自治を許されている国である。そのせいか、町も人々の雰囲気も明るく活発な印象を受けた。 観光後、クルド人家庭にお呼ばれして現在の気持ちを伺った。「何ら差別されることのない現状に満足している」と言う年長者。(そういう心境に達するまで色々有ったのでしょうが…)そうは言っても「クルド民族の『国』が有ればいい」と思う若者。 日本で生活する限りでは、思い悩むことなど無いであろう「民族」や「国」という定義。それがここでは、人々の心の大切な部分を占めている。簡単に意見など出来ない難しい問題だと思う。 92年に訪れて以来のアレッポの町、懐かしい〜!すっかり日も暮れてしまっていたので、旧市街に建つ立派なレストランに直行して夕食。前菜が美味しい〜♪洗練されてる〜♪♪そりゃ十数年もたてば変わるよなぁ。 このレストラン、隊商宿を改装した建物で、ホテルも併設されているそうです。こんな雰囲気あるトコなら是非泊まってみたいな! | トルコ〜シリア国境へ ヤズド教 聖なる洞窟前 聖マラク・ハーディ廟 神殿南側レリーフ コマ獅子 アイン・ダラ遺跡発掘品の一部 聖シメオン教会・聖堂 |
9/27 アレッポ〜ダマスカス | |
早朝の便でダマスカスへ飛ぶため5時半出発。ホテルから渡された30センチ四方もある朝食ボックスの持ち運びに困る。量も多いし…。 そこで、飛行機で一緒になった子どもにあげたり、トイレの管理人のおばあさんへチップ代わりに渡す。ひとつも捨てずに済んで、もったいないお化けのワタクシは一安心するのだった。 ダマスカスは相変わらずの喧噪の町。ここも十数年振りの訪問だ。でも昔に比べて雰囲気が明るい。人々の表情も。政権が代わったからなのかな? 旧市街の店先には、美しい工芸品が並べられていて目を奪われる。寄木細工とか、かっちょいいー!ほしーよー!!でも全然買い物出来なかったんだよね〜 寝不足でボンヤリした頭を抱えつつ市内観光へ。13世紀の聖廟やモスク、オスマン帝国スルタン・スレイマン建立の救貧院、クルド人であったサラディン関係の廟や神学校などを歩いて見学。その後、現在のシリア正教会総主教座が置かれている教会へ向かった。 応対して下さったサッターハ神父のお話を伺う。室内に架けられていた肖像画のひとつ、総主教が手にしている「蛇が巻き付いた杖」が珍しかったので、意味するところを質問してみた。すると…蛇は「賢さ」の象徴で、聖書の「人々は賢くなれ」という言葉に因んでいるのだそうだ。 キリスト教徒にとって「蛇」は悪魔の象徴。その蛇にそそのかされた人間が「知恵」をつけたことから堕落が始まった、とされていると思っていたので、これにはかなり驚かされた。 ウマイヤ・モスクを外から眺め、スークをブラブラしてから昼食へ。今回のNEUTRONレストラン、旧市街をくねくね曲がりつつ進んだ先にあったので、もう二度と辿り着けないでしょう…超方向音痴のワタシには。 こちらも中々に雰囲気がある店内だ。しかし、夕方の便でドバイへ向かうため、ゆっくりとはしていられず。さっさと食べ終えて出発した。 ダマス空港内の荷物チェックいいかげ〜ん!監視のおじさん、おしゃべりしていて画面見てないやん。そんな調子なのに(だから?)手続き等に時間がかかって、機内に乗り込んだのは、かなりギリギリ。 初めっからハードなスケジュールの旅だったので、疲れが溜っていたのだろう。機内食を食べ終えると即爆睡。夜にドバイの空港に到着した後、関空への便が出る夜半過ぎ迄、またまた熟睡。機内では、なかなかに面白い映画をやっていたのだが、鑑賞することもなく、ひたすら寝る。 寝ているだけだったというのに、関空に到着したら、夕食を食べに空港内のラーメン屋へ。イスラム圏から戻ってくると、何よりラーメンが食べたくなる私です。 [完] | 聖モヘッディーン・イブン・アル・アラビ廟内 スーク内 ピクルス屋さん スーク内 パン屋さん スーク内 肉屋さん(羊の頭と足を焼いてます) |
埼玉県蕨市には、日本に住むクルド人の多くが生活されていて、通称「ワラビスタン」と言われているのをご存じでしょうか?「クルディスタン&日本友好協会」の事務局もここにあります。興味を持たれた方は、公式サイトをご覧になって下さい。 この旅行記を作成中に、クルド関係で幾つか気になる事件がありました。中でもショックだったのが、国連難民高等弁務官事務所UNHCRよりマンデート難民として認定されていたクルド人のトルコへの強制送還でした。 以前から、日本の難民に対する冷酷さには、怒りを通り越して呆れを感じていました。「このレベルでは、迫害している国々を非難出来ないよな」と思うのと同時に、日本人であることが恥ずかしくなります。 私は専門家でもないし、実際に旅をして見聞きしたことや、本から得た知識しかありませんが、何となく分かりかけたことがあります。それは「トルコはクルド人を恐がっているのではないか?」ということ。 かつて、列強諸国がトルコの分割を狙った時に、帝国内のトルコ人以外の民族を煽って独立運動を燃え上がらせました。「民族自決」は時代の流れであったし、避けられないことだったと思います。しかしそれが列強諸国の利害のためであったことを、トルコ政府も国民も忘れてはいません。だから欧州の政治家や人権運動家が「トルコ国内のクルド人問題」について発言すると「またそういう手段で我々の国を分裂させようとしている」と、必要以上に構えてしまう。 一方、日本は地理的な距離が幸いして、中近東諸国の独立に際して手を汚していません。だから逆に、言うべきことは言える立場だと思うのです。「トルコは、あの地域の要であり日本との関係も良好だから、その関係に水を注すようなことは言えない」という考えを耳にしたこともありますが、仲が悪かったら余計言えないでしょう?悪口じゃなくて忠告なんだから。 問題の根本的な部分を解決するには時間もかかります。哀しいことですけれど「難民」はいなくなることはないでしょう。なら助けを求めて逃げてきた人々に対し、どう接することが出来るのか?日本の現状は「成熟した国」とは違う方向を向いていませんか? 大学時代にちょっと歴史をかじった&訪問回数が他の国より多いトルコの、クルド問題について旅行記の最後で触れてみました。文章を書く上で何度か参考にさせて頂いた「クルディスタン日本語NEWS」さん(クルド問題を総括的に見るのに役立つかと思います)、どうも有難うございました。 ところで「クルディスタン」と呼ばれる土地は、大方の部分で歴史的アルメニアと重なっています。つまり現在のアルメニア共和国よりずっと西や南に広かったのです。 当然、過去2つの民族間には争いがありました。もしクルディスタンが独立するようなことになれば、この地域に幾つかの聖地が含まれているアルメニアも内心穏やかではないでしょう。 この土地の歴史は非常に複雑です。角度を色々変えて見なければ、それぞれの立場を客観的に理解することが出来ません。本当に、難しい地域だと思います。改めて実感させられました。 |
作成日:2005/01/10 最終更新日:2005/01/30 Copyright(c)1997-2016 CAYHANE ELMA All right reserved. This website is written in Japanese(Shift_JIS). |